PROFILE
名前
高木エレナ
生年月日
1991年1月30日
ポジション
GK
背番号
1
出身地
福島県白河市
身長
173cm
利き手
右
勤務地
株式会社 ホンダロジスティクス
経歴
福島県立光南高等学校→日本体育大学→三重バイオレットアイリス
PLAYER'S JOURNEY
プレーヤーの歩み
幼少時代
-
高校・大学時代
ハンドボールの出会いは高校生の時でした。高校入学してから、何か新しい事をしたいなと思っていた時、入学した当時の高校は県でハンドボールの強い高校でインターハイの出場の経験もあった高校でした。その時「インターハイ行けたらかっこいいな~」って軽―く考え、笑 ハンドボールやったことないからやってみよ~っていうとっても軽い気持ちからハンドボールを始めました。
高校1年生の時はコートプレーヤーをしていて、先輩たちについていくのが精一杯の毎日。1年生の時は試合にでることはなく、応援ばかりだったけど、戦ってる先輩たちの姿は今でも忘れられないくらいかっこよかったことを覚えています。私もいつかコートに立ってプレーしたい、そう思う毎日でした。3年生の先輩たちが引退し新チームになったある日・・・・。元々GKは3年生の先輩がしていたので新チームになる時にGKをする人はいない・・・という事になり・・・急遽GKをすることになりました。
最初は顧問の先生にも「いやです」と断った記憶もありましたが、新人戦までという事でGKを引き受けました。笑 結局新人戦が終わってからもGKもする事になり、今にいたります笑 高校時代は自力でインターハイには出場したことがなく、国体予選のメンバーに入ることはできましたが出場機会も少なく今思うとあっという間の3年間でした。
進路を決める際、親からは「就職しろ」と言われていたので自分がハンドボールを続けるという選択肢はありませんでした。ですが、当時監督だった後藤先生からは「大学でハンドボールを続けたほうがいい」とういう事を言われ、「日体大はどうだ?」と言っていただきました。この時大学からオファーがあったわけでもないし、当時の私は日本リーグがあることすら知らなかったし、「ハンドボールの大学ってどこがあるの?」と思うくらい知識不足でした。そんな高校時代活躍もした事がなかった私でしたが、現日本体育大学の女子の監督である辻先生がわざわざ高校まで足を運んでいただき、私の練習姿を見てきてくれました。当時GKだけでなく、コートプレーヤーもしていた私はドキドキしながらがらも練習をしていた事を今でも覚えています。
そして、進学を進めていた両親も説得し、日本体育大学を受験する事を決めました。
大学生活は正直思っていたキャンパスライフと全く違うものでした。笑 初めて親元から離れ、寮生活。部屋は同じ部活ではなく、部活も年齢も出身も違う子たちとの3人部屋。寮にはたくさんの規則があったり、1年生の時は全ての事が初めてで慣れるので精一杯の毎日でした。毎日生活していくのがいっぱいいっぱいだったある日、転機が訪れました。その日は試合当日で、日本体育大学が会場でした。その当時はホームの時はメンバー外も一緒にアップをする事になっていて私はメンバーには選ばれてはいませんでしたが、GKのアップに入るために準備をしていました。その日は無事に試合も終え、何事もなく終わりましたが後日、辻先生(当時監督)から「U-20の選考会に選ばれたぞ」と報告をうけました。でも私はその時戸惑いの方が大きく、「なぜ?私が?どうして?」という思いでいっぱいでした。後々話を聞くと、ホームで行われた試合のアップを見て選考会へよんでくれたみたいで・・・聞いたときはびっくりしたし、まさか自分がなんて思いもしませんでした。選考会当日、ドキドキしながら顔合わせ。正直私は一緒の大学から行った原希美以外誰も顔を知りませんでした・・・笑 その当時は何もかもが初めての事ばかりで新鮮で、気持ちの中では頑張りたい!という気持ちもありつつ、心のどこかでは「私なんて選ばれるわけない」って思ってました。でもその選ばれるわけない、という気持ちが逆に良かったのか、「だったら傷跡残してやる!」と闘志が燃えていました。選考会後日、正式にU-20に選ばれることができ、アジア大会、世界選手権に出場しました。いろんな事が本当に沢山あった4年間でしたが、戻りたいかと言われたら「戻りたくない」と答えますが(笑) 最高の同期と先輩、いろんな友達に出会えたことは、一生忘れられない思い出になりました。
リーグ所属 以降
大学生活を送る中で、日本リーグを意識し始めたのはだいたい4年生の頃だったかなと思っています。その時初めての日本リーグの監督さんに声をかけていただいて「私でも日本リーグでやっていけるのかな」と不安は思いと嬉しい思いがありました。最終的に悩んで悩んで悩んで・・・三重バイオレットアイリスに入団を決めました。
大学生活とは全く違い、一人暮らしでご飯も自分で作り、仕事をフルタイムでしながらのハンドボールは肉体的にも精神的にも本当にきつかったです。その当時から専用の体育館はなく、体育館が使えない時は砂浜を走ったり、自分たちでコートの線を引いてカチカチのボールで外の砂利でハンドボールしたりと
自分の好きな時にハンドボールをする事はできませんでしたが、その中で月1のチーム内での食事会があり練習終わりにチームメイト全員でご飯を食べに行き、住む場所が皆違う中で少しのコミュニケーションの場をチームとして作っていました。
それでも社会人1,2年目はハンドボールも私生活も全くうまく行かず、3年目になる時には引退を考えていました。そんなある日出会ったのが、今の夫です。今の夫と出会い、結婚したことで、自分自身の考え方が大きく変わり、世界が変化しました。結婚してからの競技の成績も上がり、その後は、もうそろそろ競技を引退をして普通の結婚生活を送りたいなと考え始めました。2018年の3月のプレーオフ。チームとしては2回目のプレーオフ。結果は負けて凄い悔しい思いでいっぱいでしたが、自分の中では少しやり切った感情もありました。引退も視野に入れながら生活をしていく中で、私の人生を変える出来事は訪れました。それが妊娠です。妊娠が分かる前から海外の人のSNSで子供と一緒にコートに立つ姿を見て、素敵だなーと憧れはありましたが、自分にもできるのかな?と思うとその時はあまり現実的ではありませんでした。でも、その妊娠が分かった時にお腹の赤ちゃんが「今はゆっくり休んでね」と声をかけてくれている気がしたんです。そこから出産までいい意味で競技の事は深く考えず復帰できなかったらできなかった、出来たらラッキー!くらいに考えて妊娠生活を送りました。その後出産し、競技復帰までは本当に大変な道のりでした。体も0の状態、精神的にも不安定な時がたくさんありました。その時競技復帰まで頑張ってこれたのは、一緒に頑張って支えてくれた家族、チームメイト、スタッフや多くの人たちに助けれられ頑張ってくることができました。当時監督の櫛田さんはいつも気にかけてくれていて、個人練習中子供をみてくれたり、今でも忘れられない言葉は「本当にいつもよく頑張ってるよ」と声をかけてくれていたことです。出産後トレーニングがうまくいかなくなり、自分で自分を責めてしまう時にそのなにげない言葉が私の心に身に染みて、今でも苦しくなるとその言葉を思い出して助けられています。
また競技復帰を目指していく中で自分の中でずっと思っていることがありました。それは「新しい自分を作る事」でした。どうしてもトレーニングしていく中で過去を自分が出ていてしまい、「前はできたのに・・・」と思いがちでしたがそれはただの自分の中の過去のイメージに過ぎなくて、イメージをする事も大切だけどそれを上書きするくらい、新しい自分を作るということだけを考えてトレーニングしました。そうすると自然と出来ない事の壁に当たっても、新しい自分を作る一歩だと考えられたら、思い切って前に進むことができるようになりました。その後は仕事、競技、家庭の両立をしながら、思うようにはいかない毎日ですが、とても楽しい毎日でもあります。
今現在、日本リーグの選手の中で子育てをしながら競技をしている人はいませんが、少しでもこういう未来もあるという事を伝えていきたし、これが私の人生で私が選択した事ですが、これから他の人も「好きな競技をしながら、○○もしている」が一人ずつ増えていったらいいなと思いますしやりたい事がやり続けられる環境が今後増えていくために自分ができることを発信していければと思います。